Director's blog
院長日記

2019年最後の診療日です。年末年始をご高齢の両親と過ごす方々もたくさんいらっしゃると思います。

今回は、その介護する方々の気持ちを考える上でとても参考になるところを、先日ご紹介した本「選択の科学」から引用してみましょう。

 

選択の科学(シーナ・アイエンガー、櫻井祐子訳)

 

わたしたちはどんな状況にあっても、「選択」の自由を手放すことを嫌います。

それはなぜかと言えば

「選択」を通じて自分の人生をより良いものに変えられるという信念があるからです。

 

だがその反面

どの道を選んでも自分の幸せを必ず損なうような「選択」

つまり「選択」が避けられない上に、どの「選択肢」も望ましくないという状況が存在することを

わたしたちは経験的、本能的に知っています。

昨日のお話で

こどもの命には「価値」があります。

しかし

治療に関する決断を迫られた親たちは

「選択肢」の比較を余儀なくされ、そして比較するためには「値踏み」を余儀なくされるのです。

 

どれほどの苦しみが、死に等しいのだろう?

言い換えれば

子どもの現在と将来の苦しみを足し合わせたものが一体どれほどであれば

死のほうが望ましいと判断すべきなのだろう?

 

継続治療の判断を下すためには

 

どれだけの希望が

つまりどれだけの生存率や回復の見込みが必要なのだろう?

 

決断を下すとき

自分のほかの子どもたちにかかる
感情的ストレスや経済的負担などの影響
も考慮に入れて検討すべきだろうか?

それとも
この子の命を、ほかの何よりも優先すべきだろうか?

 

普段であれば、家族と距離を置き

それをあたかも商品であるかのように「値踏み」することなど

とても考えられません。

 

しかしわれわれは

たしかにこのような判断を強いられることがあります。

 

そしてなぜそれがストレスに満ちているかと言えば

われわれが感情的な結びつきを持っているものに

比較可能な「値段」を割り当てたくないからにほかありません。

 

 

このような「選択」とは無縁でいたいと、だれもが願います。

だが現実は厳しい。

 

わたしたち一人ひとりが

一生の間にこれに劣らぬほど苦渋に満ちた決断を迫られる可能性があります。

アルツハイマー型認知症患者は、今後さらに増え続けると予想されています。

日本人の一生で2人に1人はがん患者になります。

 

要は、わたしたちのだれ一人として

こうした状況にまったく対処せずにすむ人はいないということです。

 

医療の質は向上の一途をたどり

人間の寿命は延びています。

このような中

わたしたちはいつか親や愛する者たち

ひいては自分自身について

難しい「選択」を迫られるでしょう。

 

 

実際

身を切られるような一つの「選択」ではなく

わたしたちがあまりにも安易にあたりまえのことと思い込んでいる

日常生活の些細な事柄について

「選択」を迫られるようになります。

 

その結果

愛する者の生活の質そのものを

「値踏み」することを強いられるのです。

 

たとえば

用心のために母の車のキーを隠すべきでしょうか

それともできるだけ自立した生活を送りたいという母の望みを聞き入れてキーを渡すべきでしょうか?

 

祖父が外を徘徊して

自分の庭のように知り尽くしていたはずの近所で迷子にならないようにするには

どうしたらいいのでしょう?

 

父が自力でものを食べられないなら

常時看護が受けられる介護施設に入れた方がいいのでしょうか

それとも

たとえばホームヘルパーを頼むなどして

ある程度自分の意思で生活できるように住み慣れた環境で暮らさせてあげるべきでしょうか?

 

このジレンマは

単純にイエスかノーかで答えられる問題というよりは

綱渡りと言った方が近いのです。

 

たしかに健康と安全は考慮すべき重要な要素ですが

自由と主体性をできるだけ尊重してあげることも大切ではないのでしょうか?

 

保護と尊厳とを「値踏み」し

病人の状況に応じて絶えず判断を繰り返すのは

並大抵の苦労ではありません。

 

人は心身ともに衰えていく中で

周りの状況を掌握したいという本能だけは衰えないことが

さらにことを難しくします。

 

病人は

自分に残されたわずかな自由を守ろうとして

人の助けを拒絶します。

 

家族として

愛する者の「選択」をいつ、どのようにして取り上げるかを決定するプロセスが

ただでさえ苦渋に満ちた経験の最もつらい部分だと、どこの家族も口にします。

 

わたしたちは、難しい決断の負担を軽減しようとして

権限や専門知識をもつ人たちに頼ることが多くなります。

 

苦境に立たされたとき

自分が正しい方向に進んでいると太鼓判を押してくれる人がいれば

たとえ現実の結果が変わらなくても、苦しみは大いに軽くなります。

 

わたしたちの文化では

「選択」の概念が、尊厳と主体性の美徳と、きわめて密接に結びついています。

そのためだれからも

たとえそれが退行性脳疾患に苦しむ人であっても

「選択」の権利を剥奪すべきではないという強い意識がはたらいて

肉体的健康への配慮さえ、どこかに押しやってしまうことがあります。

 

その対処方法の一つが

ケアの最も厄介な側面を、医療専門家に任せることです。

息子や娘、夫が車のキーを隠す勇気がないなら

「運転はおやめなさい」という医師の一言が、祖母の運転免許証を返還するきっかけを与えてくれます。

 

 

人が保護と世話を完全に他人に頼るのは

幼児期と高齢期ですが

自立を完全な依存の状態に変えるのは、老年だけです。

 

わたしたちは介護者になることで

「選択」にまつわる精神的負担を、他人の分まで引き受けることになります。

もちろん、いつだって愛する者たちの幸せを望んではいますが

生活の質にかかわる、めまいがするような「選択肢」の数々には、頭がどうにかなりそうになります。

 

わたしの同僚の女性は

まるで天啓に打たれたように

あることに気づいてから、肩の荷が下りたような気がしたと話していました。

「治療をどうするか何年も悩んでいたある日、突然はっと気がついたの。

母は、わたしが何をやってもやらなくても、いつか亡くなるってことに。

残酷に聞えるかもしれないけど、

自分が母を治せないこと

母に自主性を戻してあげられないことを理解することは

わたしにとって本当に大切なことだった。

そのおかげで

一緒に暮らした最後の数年間は

質の高い生活を二人で送ることだけを考えることができたのよ。

完璧な介護者にならなきゃと、そればかり考えていたあの頃は

とてもそんなことはできなかった」

 

もしかしたら…

 

わたしたちはみな

完璧になろうと頑張りすぎずに

愛する者とともに過ごす喜びに

もっと目を向けるべきなのかもしれません。

Author:

武本 重毅

聚楽内科クリニックの院長、医学博士。