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院長日記

「あなたは私の手になれますか」(小山内美智子、中央法規出版、1997年)

武本 重毅

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今年の夏はとても暑いですね。 
この2018年夏に、わたしは、患者さんの体験にもとづくノンフィクション本をたくさん読んでみました。 
自分なりの58年間に色々なことを経験し、再来年の東京オリンピックが終わると還暦を迎えるわたしですが、この齢になって、もっともっと色々なことを知りたくなりました。 
 
でもわたしの身体はひとつです。 
 
そして残りの時間は限られています。 
 
どれだけのことを経験できるでしょうか。 
 
身体は何歳まで動くでしょうか。 
 
そこで今、他人の人生経験を通じて、色々なことを学ばせていただいています。色々なことを考えています。 
もちろんわたしの職業柄、患者さんから学ぶことも多いのですが、わたしが歩んできた道、その環境なんて、地球全体、いや日本人全体からすればちっぽけなものです。 
 
そんな中で、またこれはと思う良い本に出会うことができました。 
もう20年以上も前に出版された本ですが、この本を読むと、今の高齢化社会における問題点、将来の高齢者ケアのあり方、そして高齢者は施設の中で何を思って過しているのか、ということを考えさせられました。 
 
介護の仕事に携わっているひと、親の介護を始めているひと、そして自分自身が既に介護を受けている、あるいは、近い将来に受けることになるひとに、是非読んで欲しい本です。 
 
以下に、この本の内容を抜粋・要約したものを記載します。 
 
 

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「あなたは私の手になれますか」(小山内美智子、中央法規出版、1997年) 
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21世紀は高齢者会に突入し、日本は世界的にも経験のない〝ケア社会〟になる。誰もが見知らぬ人と出会い、助け合っていかなければいけない時代である。介護を教える学校が全国に増えつつあるが、ケアを受けたことのない人たちが教科書をつくってもいいのだろうか。障害が重くなればなるほど〝ケアを受けるプロ〟なのである。彼らがはっきり自分の思いを伝えたときに真の高齢社会、弱者の社会が訪れる。そしてそれは地球の財産となって歴史をつくり、分化をつくっていく。すべての障害者はケアの教師になれるのだから。 
医師や訓練士、介護福祉士といわれている人たちは、勉強してきたという自信があるため、ケアを受ける側の話をよく聞かない人がいる。体の苦しみを訴えても、かえって説教されることもある。今の介護学校のあり方では、とても介護学校を出た人を雇う気に私はなれない。 
 
高校の職場実習の時、老人ホームに行き、ひらがなタイプライターで手紙の代筆の仕事をした。話を聞いてあげたおじいさんが私の胸にさわりたいと言い、引き出しから一万札を出してきて、涙をこぼし手をあわせたことがあった。一瞬ためらったが思いなおし、さわらせてあげた。 
 
子供の頃施設にいて、もっとご飯を食べたいのに職員から「もういいでしょう」と言われた時、私は職員の顔を睨む外なかった。 
 
施設にいた頃は、夜どんなに喉が乾いても水が飲めなかった。食事の時はご飯の上に魚や煮しめ、サラダさえ乗せられて口に運ばれたこともあった。心の中で、私は犬では無いのにと叫んでいた。最近、老人ホームではご飯に薬を混ぜて食べさせていることを新聞で読み、ため息が出た。薬を拒否するお年寄りはご飯に混ぜると飲むから、と書いてあったが、「ではあなたはそのご飯を食べる気がしますか」と食べさせている職員に問いかけたいと思った。魚や煮しめはご飯にかけられてもまだ我慢ができるのだが、サラダや酢の物になると吐き気がする。さらに薬となると…。食事は人間にとって大きな楽しみではないだろうか。ご飯はご飯、おかずはおかずと分けて食べたいものである。食事と薬を飲むことが別のことであるのは言うまでもない。また子供の時の話になるが、施設の朝食に出た豚汁の肉は、ほとんど白身ばかりであった。私はリンゴと肉の白身はどうしても食べられなかった。食べないと叱られるので、肉を噛まないで丸ごと飲み込んでいた。ある時、肉が多すぎて、喉に入りきれなくて気持ちが悪くなり吐いてしまった。すると看護婦さんに往復ビンタを食った。りんご嫌いなのも、わがままだと思い込んでいた。しかし、最近りんごアレルギーと言う医学用語を知り、自分はわがままではなかったということに気づいた。りんご果汁と肌おくように感じたり、口の中が痛くなる。しかしジュースにしたり焼いたりしたら食べられると書いてあり、私にぴったり当てはまるのである。
 
老人ホームにある施設や親は「もしも何かあったら取り返しがつかない」と言い、楽しみの中、危険を犯す自由を奪ってしまう。 
 
お尻の拭き方に満足いかない時、「もう一度拭いてください」とは言えない。この言葉を言ってしまうと後で介助者と気まずくなるからと思い、言葉を飲んでしまっている。施設に入り、初めて看護婦さんにお尻を拭いてもらった時、お尻にまだ便がついている感じで気持ちが悪かった。しかし、「もっと拭いてください」とは言えなかった。ただ私は心の中で「あなたも自分のお尻をこうして拭くの?」と繰り返していた。 
 
ケアとは、受け手の好みをよく聞くことである。ケアをする側の考えを押し付けてはいけない。受ける側も謙虚になり、ケアする人の言ったことが本当に納得できたらすぐに受け入れることが大切である。好みに合わなければきっぱりと断る勇気を身に付けることである。影で文句を言わず直接相手に言えばいい。まぁ書く事は簡単だが、これらを実行に移した時はベッドに針か画びょうがないか確かめたほうがいい。それだけ、心地よいケアを受ける事は自分との戦いであり、命がけのギャンブルのようなものである。 
 
ボランティアを集めるには、多くの人の目を引くイベントを考え、常に新しいことを行い、マスコミを通して私たちの考えを知ってもらうなど、途方もないエネルギーが必要である。おとなしくしていたら、ボランティアはすぐ泡のように消える。 
 
老人ホームや施設では、職員と入所者は個人的に付き合ってはいけないことになっている。例えば、1人の障害者が職員に映画に行きたいと言った時、職員は1人だけ連れてくと不平等になるので断る。こんな考え方が通用している限り、心地よいケアはありえない。 
 
親や兄弟だけにケアを依存してきた時代から、今の時代がある。姥捨山から老人ホーム、そして地域ケア……とケアの階段を上っているのだ。さらに階段を上るためには、税金を上げなければいけない。子供をたくさん生まなければいけない。元気の良い高齢者は働かなくてはいけない。そして1番大切な事は、身内だけではなく、隣近所の人たちと付き合うことである。助け合って生きなければいけないということ、いや助け合って生きることが幸せなのだということを弱者が伝えていかなければ、心地よいケア社会は実現されないのである。 
 
おごった言い方であるが、私がケアを受けるプロとして、たくさんの女性と出会いケアを教える事は、高齢社会を導くことにつながるのではないかと思う。将来的には、介助を教える教師になりたいと言うのが私の夢であるが、今は私の家の中が小さな「介護学校」なのだ(介護と言う言葉は嫌いだが)。 
 
3、4年に1人、何も教えなくても最初から素晴らしいケアの天才がいる。この天才と巡り会ったときには、お金をたくさんつぎ込んでも離したくない。ケアとは、ある程度の学問は必要であるが、あとはフィーリングだ。芸術の世界に天才がいるのと同じようにケアにも天才がいる。 
 
高齢社会に向かって、介助者を選べる時代が来るのか不安である。働かなければならない障害者たちが、人数こそ少なかれ入浴からワープロ、車の運転までケアできる人を選ばなければ働く可能性を持っている人たちも、働けないと決めつけられることになる。私たちも消費者であり、生産者になれるのである。ケアを受ける人は、何かをやってもらうことばかり考えてはいけない。自分はケアに助けられて何ができるのかを考え、チャレンジすることから始めなければ、ケアのプロは育たないのである。 
 
1日目からお土産をたくさん持ってくる人、来るたびに何か持ってくる人はご注意。すぐやめてしまう。なぜだろうか。ケアに来た時は、そこの家に合わせて欲しい。ご飯に味噌汁だけでもその人が良ければ良いのである。親切がおせっかいに変わってしまうこともある。ケアとは、肩に力を入れ、さぁ、お手伝いしますよと張り切っては長続きしない。ジャージを着て、エプロンをつけてくる人も長続きしない。ケアを長く続ける秘訣はさりげなく来ること、苦手なことも頼まれるだろうが、楽しんでやることではないだろうか。ケアを受ける側もする側も常に、できないだろうと決めつけてはいけない。頼む勇気とチャレンジ精神が大切である。おせっかいは迷惑なこと、とは限らない。ときには知らなかった世界を教えられることもある。だから、自分の知っていることを教え合いたい。しかし押しつけはいけない。美容室に行き、髪を洗ってもらった時「かゆいところはございませんか」と聞かれる。あの問いかけが大切なのである。 
 
病院では、心地よいケアは受けられない。はっきりって看護婦さんのケアはひどい。時間がないからだろうか。それともトレーニングが足りないのだろうか。決定的な事は、看護婦さんは患者の上であり、注文はあまり言えないということだ。鼻の頭さえ書けない障害者にとって、入院は地獄に落とされるようなものだ。日本の病院の現場では、完全看護はありえない。出産の時も首の手術を受けた時も、脳性麻痺にとても理解のある医師と出会ったので、病院の悪口は書けない。しかし、清拭受けた時とてもすっきりする人と、やってもらわない方が良かったという人がいたことは書いておきたい。他の患者さんは、看護さんがいるときはにこやかにしているが、看護婦さんが帰ったあとで愚痴のこぼしあいが始まる。病院の患者はすべて一時的な障害者である。 
 
介護学校や看護学校は、大きく社会を変える人材を育てているのだということを強く認識してほしい。そして、耳の痛い話も生徒たちに聞かせなければいけない。介護学校になぜ階段があるのか。1番の教師は障害者のはずだ。そこに気づいて欲しい。 
 
私が初めて好奇心と原稿書くためにホストクラブに行った時、とてもうまくコートを着せてくれる男性がいた。片手を素早く通し、もう片方のコートの袖に自分の手を通し私の手を握って着せてくれた。なかなかああゆうテクニックを使う人はいない。 
 
クイズ番組で、大便の匂いが消える薬についてそれを飲むか、飲まないかという討論をしていた。大便は本来臭いものであり、人間らしさを失うという回答もあった。寝たきり老人になったら飲むという答えもあった。私はまだ答えを出していない。しかし、寝たきりになり、紙おむつをしなければならない時がきたら使いたい。体に害がなければだが。水洗トイレで私の大便は誰にも見られないように、水を流すレバーに長い紐をつけ、足で引っ張ると流れていくようにしている。大便の形くらいはプライバシーを保ちたいものだ。しかし、寝たきりになりオムツを当ててしまうと、そのプライバシーさえ捨てなければいけない。 
 
歯の磨き方によって、1日気持ちよく暮らせるか、何やらすっきりしないまま暮らすかが決まる。この歯の磨き方で、その人の個性が見えてくる。3回言ってもだめな人はもう諦めてしまうほかない。他人の口の中の感覚が分からないので、このケアは最高に難しい。私はマスクをしてくださった方が、安心して口を大きく開け遠慮なく呼吸ができるので、心が軽くなる。また、ケアの人でタバコを飲む人に歯を磨いてもらうと、ニコチンの匂いがして気分が悪くなる時がある。いくら私の家でタバコを飲まなくても、歯を磨いてもらえばその人がタバコを吸う人か吸わない人が、わかってしまう。ヘビースモーカーだったら体にまで匂いがついている。自分の匂いと相手の匂い。体臭は誰にでもある。気持ち人と、肌に合わない人がいる。私は男女どちらでもいい、歯磨きの上手い人に惚れてしまう。それだけ歯がケアの大切なキーポイントなのだ。歯磨きが上手ければ、その人は何をやってもうまいだろう。それは40年間以上ケアを受け続けてきた私の意見なので、間違いはないと思うのだが。 
 
入浴ケアについては、股を気が済むまでこすってもらい、頭の痒みがなくなるまでシャンプーしてもらい、そして、下品な言葉であるが、毛の生えているところを思いっきり気持ちよくこすってもらえたならば、その入浴のケアは100点と言えるだろう。男性障害者がなぜソープランドに行くのかという問いに1つだけ納得できた答えがあった。それは、施設の職員よりペニスの周りをきれいに洗ってくれるから、と言う回答であった。看護婦さんやヘルパーさんに「そこをきれいに洗って」とは言えないだろう。 
 
マスターベーションのケアは誰がするべきか。今もって答えは出ていないが、人間として必要なことである。障害者だからしなくてもよいということは、この世に何一つないと思う。だからといって、介助者にソープランドのようなことをやってくださいとは言えない。器械で済む事は器械をつけてあげるというところまで、医療的ケアとして行ってもいいのではないかと考え始めている。マスターベーションは心身のケアである。これは看護の問題として、医療関係者が受け入れていくべきことではないだろうか。この問題については、まだまだ時間がかかりそうだ。しかし、痛みを和らげる、かゆみを止める、悲しみを聞いてあげると言った事は、人間にとって最も大切なケアである。ならば性欲を満たしてあげることも、医療の一部ではないかと思う。「あなたは障害を持ったら男性であることを捨てますか」と問いかけたい。性欲は肉体だけの問題ではない。肩を抱かれるだけで満足できる時もある。食欲や金銭欲と同じように一人一人違う。 
 
ケアを受けている時、絶対に言ってほしくないひとつの言葉がある。「何かあったらどうする」という言葉である。この言葉を私たちは何度聞かされてきたことか。人が生きている限り、障害があろうとなかろうと何かが起きる…良いことも悪いことも。だから人生、楽しいのだ。生きることは毎日がチャレンジである。「何かあったら」という言葉は手足を縛り、心も縛ってしまう。 
 
施設の建物は、すべて職員がケアをやりやすいように設計されてしまう。トイレさえドアがなく、カーテンのみ、というところもある。出さなければならないものも引っ込んでしまう。健康におならも安心して出せない。設計図を描いている人に、こんなところに住みたいかと聞いてみたい。お役人さんや政治家にも聞いてみたい。 
 

Author:

武本 重毅

聚楽内科クリニックの院長、医学博士。