ヒラメキをつかむ“新鮮な疑問符”がいつも頭にあるか 論語【八佾篇】
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子夏(しか)問うて曰く、巧笑(こうしょう)倩(せん)たり、美目(びもく)盼(はん)たり、素(そ)以て絢(あや)をなすとは、何の謂(いい)ぞやと。子曰く、絵の事は素(しろ)きを後にすと。曰く、礼は後かと。子曰く、予を起す者、商や始めて与(とも)に詩をいうべきのみ。
子夏は、はじめはただ詩の意味を質問しただけだったが、孔子の言葉を聴き、たちまち礼のことに悟るところがあった。
また質問する。
『このような場合は礼は後か』
その意味は人たるもの、内に誠実の美質があって、さらに礼を学びその外を飾れば、その誠実はいよいよ発揮して、行いやすい。内に誠実の質がなければ、いたずらに礼を学んでも利益はないということである。
孔子はここで子夏の聡敏な才能を感じ、
『おまえは実に私の気づかないところに気づき、私を呼び起こし私を啓発してくれた。詩を学ぶのは、このように言外の意味を発見してこそ、大いに益するところがあるものである。おまえのような聡敏な者ならはじめてともに詩を語ることができる』
と深くこれをほめたたえた。
詩を読む者は新意を発見することを尊ぶという意味を示したものである。
(渋沢栄一「論語」の読み方、竹内均編・解説)
講演、卓話、セミナーなど人の話す内容をそのまま理解し持って帰るのではなく、さらに新しい工夫を発見することが、日々新たなる学問なのである。