子曰く、二三子(にさんし)我(われ)を以(もっ)て隠(かく)すとなすか。吾(われ)爾(なんじ)に隠すことなし。吾(われ)行(おこな)うとして二三子とともにせざる者なし。これ丘(きゅう)なり。 論語【述而篇】
いつも“裸”で生きた孔子の凄さ・懐(ふところ)の深さ
「おまえたちは、私が何か胸中に包み隠していると思うか。私は心に知るところをありのままにすべてをおまえたちに告げ教えている。何一つ隠していない。行動にしても、おまえたちと一緒にしないことはない。これが丘(孔子)のすべてである」
と言明したのである。(二三子は諸弟子の意味。丘は孔子の名前、孔丘の略)
孔子がふだん弟子に語って教えているのは、深奥な哲理でもなく、神秘的なお告げでもない。平々凡々、世にありふれた道徳の仁・義・忠・孝・礼・知・信の実行ということだ。ことに怪力乱神を語ることなどいっさい避けていたから、弟子の中には何となく物足りなさを感じる者がいたらしい。
(渋沢栄一「論語」の読み方、竹内均編・解説)
何事であれ、周りに隠すようなことがあると、それを隠し通すために更に多くの労力が必要となり、そこにつけ込む輩も現れるようになる。普段から心を開いて生活・行動していれば、他人からどのように見られようが、かまわず自分自身の道を突き進むことができるようになり、それでも一緒に居たいと思う人が集うようになる。