間抜けの構造 ビートたけし 新潮新書 2012年10月20日発行
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この本を読んで、自分自身が間もなく59歳になるまで、どれだけ「間抜け」であったかがよくわかった。しかし、その「間抜け」さ故に、人にはできないような波乱万丈の人生を歩むことができた。
”間”が悪い。あるいは”間”を外しちゃうのが「間抜け」。つまりそれまでのお約束や文脈、状況といったものがわからずに踏み外しちゃうのが「間抜け」であって、裏を返せば、そこさえちゃんと押さえておけば、「間抜け」にならない、かもしれない。
なんで「間抜け」失言をするかというと、自分がどういう立場にいる人間か分かっていないからだ。自分を客観視する能力がないからこういうことになる。グッとカメラをひいて、自分のことを俯瞰で見下ろして、周りの状況を把握していれば、絶対こんなことにはならない。
いずれにせよ「間抜け」な奴に共通しているのは、もう一度言うけど自分がどんな状況にいるのか客観的に見ることができない、ということ。
ストリップ劇場で、「ちゃんとやれ!」とスリップ嬢に言うのも「間抜け」だよな。裸見てよだれ垂らしながら言うセリフじゃない。
ソープランドの客にもたまに、「こんなことしてちゃだめだよ。後々ろくなことにならない」ってちゃっかりことを済ませてから、お姉ちゃんに説教する「間抜け」がいる。
「間抜け」かどうか、というのは紙一重のもので、それは状況次第で変わるもの。当事者と客観的に見ている人の間には、まるっきり違う世界があって、それがちょっとずれるだけで思いっきり「間抜け」なことになる。だから面白いんだけどね。
男女の駆け引きなんていうのも、傍で見ていると相当「間抜け」。「今日はこのお姉ちゃんとやれるかな、だめかな」なんて、男はいつもデートの最中に悶々と考えているんだけど、誘う”間”を外しちゃったりすると目も当てられないことになる。
向こうの常識はこちらの非常識であって、向こうの非常識はこっちの常識。つまり、この「間抜け」さというのは、お笑いの世界において勲章でもあるんだよ。その「間抜け」のエピソードを、こうして笑い話としていつか使うことができれば十分元をとったことになるし、それで人生一発逆転できることもある。芸人というのは因果なもので、いくら「間抜け」な状況に巻き込まれたとしても、頭のどこかでは「これはおいしいな。この状況どうにかして笑い話に変えてやろう」って考えていくものなんだ。
人の目にさらされている時ばかりが重要かというと、そうじゃない。お笑い芸人というのは、出番のあるなし、オンオフにかかわらず、常に「あいつは本当に面白いやつなのか」という好奇な視線にさらされ、値踏みされる存在。生き方そのものが問われるから、舞台以外の場所でどう振る舞うか、というところまで、じーっと見られていると思ったほうがいい。つまり、自分が今どのような状況にいて、他人からどう見られているかということを、人並み以上に意識しなければいけない職業が、お笑い芸人というもの。ただ、どんなシチュエーションの中によって、当然適切な”間”というのは変化するから、これが「お笑いにおける正しい”間”だ」という「正解」は無い。お笑いを制するには、”間”を制すること。
その場の空気みたいなものが何でわかるかというと、客の目というか匂いでなんとなくわかる。それを俺らは「会話の運動神経」と呼んでいるんだけど、それが分かるまではある程度の経験が必要になる。そうやって客の反応を見ながら、漫才をコントロールしていく。「今のは駄目だった。今のは結構いけたな」と、実践を積み重ねる中で自分なりに考えていくしかない。
やっぱり漫才は”間”なんだ。それは単純に早ければいい、というものではない。”間”というものはほんとに微妙なものなんだ。
笑いが起こっている途中ではしゃべらない、という鉄則がある。笑いを最大限引き出すためには、客の呼吸が、「アハハハハ、アハハ、アハ、ハア、ハッ」となるところまで待って、次の話をしないと笑いを止めることになる。ある程度やっていれば、どこでブレーキを、どのくらいの強さで踏むのかというのは自然と分かってくる。
漫才の場合だと、自分の話すネタというのはあらかじめ決まっている。だから、どこで息継ぎをすれば良いかというのは、ちゃんと考える。オチを言う直前に息をフーッとやったら落ちないし、それじゃ客も笑わないじゃん。だから、落ちるまでは一気にしゃべる。
討論の時にどこで話に入っていくかというのは縄跳びに入っていくタイミングを見極めるのと同じで、それが上手い人と下手な人がはっきり分かれる。最近は話に割って入ろうという時に、否定から入らない。「それはあなたの言う通り」で肯定してから入ってくる。そう言われると、相手も一瞬「うん」となるから、”間”が空く。川の流れに似ているね。議論に上手に割って入るときは、堰き止めちゃいけない。板みたいなのをすっと差し入れて流れを変えないといけない。
討論が上手くなる方法はまだあって、ちょっと長めに喋りたいと思ったら、「私の言いたいことが2つあるんですよ」とやる。その1つ目は、すごく短くするの。そうやって「あ、こいつの話はすぐに終わるな」と周りを油断させておいてから、「2つ目」に、自分が本当に言いたいことを長めに視聴する。
番組の司会をしているときは、とりあえず何か言って、できるだけ”間”を開けないようにしている。聞いている方が我に帰らないように、なるべく”間”を開けない。
歌舞伎町のホストもそうだろう。”間”を開けない。”間”を開けて、客が「そういえば借金が…」なんて我に帰っちゃったら、商売にならない。「パーッといきましょう!」て言い続ければよくて、「そういえば、旦那さんの会社はうまくいっていますか?」なんて聞く「間抜け」もいない。じゃんじゃん話をして”間”を埋めていって、気持ちよくさせて何十万円もするシャンパンとか注文させるのが基本だからね。酒飲んで金使っちゃおうという客を我に返しちゃったら、ホスト失格だよ。
銀座のホステスのお姉ちゃんも、いかに客に金を使わせてその気にさせるかが勝負。それでもって、どうやってやらないで逃げるかだよね。そのためにはいろんな手を使う。何度か通って結構な額の金を落として「そろそろかな」と思って「デートしようよ」なんて口説くと、「ごめんなさい。今日北海道の実家からお父さんが上京してきて」とくる。それ以外には、「弟が大学受験のために上京した」。後は「猫が病気」「おじいが死んだ」。このくらいならまだ許せるけど、「ごめんなさい。今日は帰って見たいテレビがあるので楽しみ」って馬鹿野郎!こっちはお前のためにいくら使ったと思ってんだよ。
最近はみんな下品になってるからつまんない。高級店と言われるところでも、ちょっと寝るのが専門の奴がいて、そういう専門部隊と高嶺の花がきれいに分かれちゃって。下手したら「元ソープ嬢です」なんていうのもいる。ソープは客選べないけど、ホステスなら客を選べるし、金持ってそうなやつにはやらせてあげて、いろんなものを買ってもらえばいいんだから、こんなに楽な商売は無い。
いつの時代に生まれるかというのが、職業以上に大事なのかもしれないと思うことがある。いつの時代に、どの職業についているか、というのはかなり重要なことなんじゃないかな。だから、生まれた”間”が悪かった、ということはあるんだよ。才能と実力もあるけど、最後まで時代との相性が悪くて、世に出ることができなかった、なんていう人はどの分野でもざらにいる。
時代ということを考えたときに、どの時代に生まれるかというのはほんとに大事だね。その人の”間”がいいか悪いかというのは、どの時代に生まれたかに尽きるんじゃないか。あらゆる業種というか職種に波みたいなものはあって、その時代にその分野に入るかどうかというのは運でもあるし、”間”が良いかどうかが試される。