子曰く、その以(な)す所を視(み)、その由(よ)る所を観(み)、その安(やす)んずる所を察(さつ)すれば、人焉(いずく)んぞ廋(かく)さんや。 論語【為政篇】
孔子の人物観察法は、視(し)・観(かん)・察(さつ)の三つをもって人を鑑別しなければならないというところに特徴がある。
まず第一に、その人の外面に現われた行為の善悪正邪を視(み)る。第二に、その人のその行為の動機は何であるのかをとくと観(み)きわめ、第三に、さらに一歩を進めてその人の行為の落ち着くところはどこか、その人は何に満足して生きているかを察知すれば、必ずその人の真の性質が明らかになるもので、いかにその人が隠しても隠しきれるものではない。
外面に現われた行為が正しく見えても、その行為の動機が正しくなければ、その人はけっして正しい人物とはいえない。
また、外面に現われた行為も正しく、その動機も精神もまた正しいからといって、もしその安んじるところが飽食・暖衣・気楽に暮らすというのでは、その人はある誘惑によっては意外な悪をなすこともあろう。
その安んじるところが正しい人でなければ、本当に正しい人であるとは保障できない。この三段階の観察法を実行すれば、その人がいかに隠そうと、善人は善人、悪人は悪人と常に明白に判定できる。
私は門戸開放主義をとっているので、どんな人とも面会している。世の中には、人を見たら泥棒と思えという論法で、会う人見る人を、みな自分に損をかけに来た、あざむきに来たと思って接する心情の人もいるし、あるいは反対に、会う人見る人みな誠意あるものとして接し、自分もまた誠意を披瀝(ひれき)する人もいる。
何事でも他人から依頼されれば、たいていは依頼者には利益になるが、依頼された人は、多少の損失をこうむるものである。必ずしも金銭上の損失がなくても、あるいは時間の損をするとか、あるいは自分の利益にもならないことを心配し、面倒をみてやらなければならないということになるのである。
私は来訪してくださる多数の方々について、いちいち人物を識別することにしている。人物の鑑別はなかなか難しいことではあるが、この孔子流の三段階人物観察法はまことに的を射ていると思う。
(渋沢栄一「論語」の読み方、竹内均編・解説)
私も時間とお金の許す限り、たくさんの方々とお会いして、お互いに知見を高めあうようにしている。国内外を問わず、お話する機会を設けるようにしている。しかしながら、不動産やお金がからむ相手とは、いまだに付き合うのが難しく、たいてい利益を手にした相手は手のひらを反したように寄り付かなくなる。その後にこの相手との付き合いはどの様な意味があったのかと振り返ってみる。そして何らかの意味はあった、学ぶことはあったと思う。
医師の仕事は相手を選ぶことができない。このためどんな人とも信頼関係を築くことができるようにしている。