Director's blog
院長日記

父方祖母、武本 玲の日記(冒頭部分):中国大陸での生活

武本 重毅

私の父方祖母 武本 玲(川﨑静馬とアキの長女)が残した原稿用紙の翻訳(なかなか達筆で判読が難しい)を始めてみました。

その1枚目(冒頭部分)をご紹介します。

 

ちなみに、左端で子どもを抱いているのが玲、右から2番目の軍刀を持っているのがその夫 武夫、そして武夫の前にいるのが私の父 武重です。

 

さて、私の祖母が体験した、日本の植民地である中国大陸での生活をみてみましょう。

 

 

日本人の子供らは自認するところでしたが、

私は毎日程、

夕食は自分の子供達と近所のお子達と十人近くをぞろぞろ引き連れて話したり、

歌をうたったりしながら散歩するのが、

日課みたいになっていました。

 

その時刻はどこの家でも夕食の時刻ですから、

近くの外国人住宅まで足を延ばすと、

どの家でも、ベランダで食事しているのです。

 

テーブルを囲んでいるのは、四、五人の少人数ですが、

不思議に大人だけで、子供を交えての食事風景はみられません。

 

私達がおしゃべりしながら下の道路を通るのを見た

或るベランダのマダムはいと立ち上がって

手すりの所まで来て「マダム・トン○○ディシャオハイ?」と

大げさな身振り手振りで私達を指さしながら笑いかけたのです。

 

「皆その大勢の子供は貴女の子供か?」と言っているのだナーと思ったもので、

「ノーノー」と私は右手を忙しく横に振りました。

そしたら立ったマダムはそうだろう!貴女の子供にしては多過ぎる!

とでも言うように笑いながら大きくうなずいてくれました。

 

きっと彼等外国人の間では、

最近頓に増加して来た日本人が、

子供の数が多いというのが彼等の話題になっていたのだと思えます。

 

実際街に出ても、

外国人で子供連れをみかけぬわけではないきれど、

一人か二人位の子供を連れているだけで、

日本人のように背中にも両手にも子供の手を握り、前後に二、三人の大きな子供を連れて歩いているのは

異様さえ見える風景でしたもの。

 

私共日本人は

当時殆ど内地の生活様式をそのまま持ち込んでいたので、

我々女性は私服一点張り。

 

夏になって、

浴衣の帯の暑苦しさよりも、

軽やかな洋服を着てみたらと思って、一着ワンピースを誂えました。

 

黄色っぽい荒い柑子縞でしたが、

すそが短いのと帯を締めなくていいので、実に軽快でしたのを覚えています。

 

勿論、外出着ではありません。

家の中だけ服でしたよ。

 

夏の暑さは内地とちっとも変わらぬ暑気なので、

夕方など

一風呂浴でも浴衣姿で外にブラブラ出る日本人が多くなりました。

 

或る日のハルピン新○(日本語版)上に、

次のような記事を見付けました。

 

当ハルピンにも日本人の在住者が多くなったが、

内地での風○をそのままに素足に下駄や草履ばきで外出する者が多い。

素足を他人に見せるというのを

外国人は特殊な意味にとり、嫌う傾向が強い。

国際都市ハルピンに在住する以上、彼等の意向を尊重せねばならぬが、

今○、外出の際はたとえ浴衣がけであっても

散歩の程度でも必ず、足袋を履くようにして云々とあるのです。

 

之は我々日本人はこたえましたネ。

 

外出時には夏向きのうす物の生地で仕立てた外出着があり、

その際は必ず白足袋を履く習慣だけど、

浴衣など普段着の場合は素足でないと…

Author:

武本 重毅

聚楽内科クリニックの院長、医学博士。