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院長日記

中国医学研究の躍進:いまや中国から学ぶ時代なのかも

武本 重毅

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わたしが熊本大学医学部を卒業した1989年、日本はバブル経済真っ只中でした。バブル経済とは、1986年から1991年にかけて日本で起きた株価や地価など資産価格の急激な上昇と、それに伴う好景気のことをいいます。1985年9月22日ニューヨークのプラザホテルで先進5か国(日米英独仏)財務相・中央銀行総裁会議(G5)が開催され、そこで、ドル安によって自国の貿易赤字を改善させたいアメリカが提唱したドル高是正(日本から見たら円高ドル安誘導)を目指すことで各国が一致しました(プラザ合意)。しかし、プラザ合意後、政府や日銀の想定をはるかに超えるスピードで円高が進行し、日本は円高不況に直面します。このため日銀は徹底した低金利政策をとり、その結果、空前のカネ余り状態になりました。

 

わたしは、その当時の「一億総中流」という日本の豊かな生活を過ごしながら、海外留学を夢見ていました。熊本大学第二内科の医局に入るやいなや、英文の教科書や文献を読み、勉強会では海外の有名医学雑誌の論文を解説します。外国から有名な先生が来熊すれば講演会に出席し、発表の手伝いだけでなく、熊本観光に付き合います。時には熊本の夜の街へ一緒に繰り出したりもしました。そのようにして外国人に対して慣れていったのでした。

その一方で、中国からは留学生として何名か来熊していました。彼らは真面目で物静かでした。当時の中国は、まだ車社会ではなく、自転車が主な交通手段でした。医学は東洋医学が中心で、日本や欧米のような教育を受けなくても医師として開業することができました。まだまだ医学の分野においては発展途上の段階だったのです。

 

ところが1988年に、上海第二医科大学グループが、活性型ビタミンAであるATRAを使って単剤で23例の急性前骨髄性白血病(APL)中96%に完全寛解を得たという驚くべき成績を報告しました。それが血液学では最高峰の医学雑誌Bloodに掲載されたのです。わたしは研修医になったばかりで、先輩医師が勉強会で読むその論文の内容をあまり理解していませんでしたが、中国からそのような発表がなされたことにとても驚いたのを覚えています。

 

わたしは臨床医として3年間いくつかの病院を転々とし、血液疾患のほか糖尿病治療や呼吸器疾患などを学んだ後、熊本大学大学院に入学し、先ほどの医学雑誌Bloodに私たちの研究成果が掲載された後、アメリカ東海岸メリーランド州にある国立衛生研究所(NIH)の中の国立癌研究所(NCI)で客員研究員として3年半を過ごしました。その当時のアジアからの留学生といえば、日本人の他にインド人や中国人がいました。しかし後になって振り返ってみると少子高齢化の進む日本から海外に行く若者は減少し、わたしが帰国し2005年を過ぎた頃から、中国からの留学生数が一気に増加したのでした。

 

その成果は10年後に現れました。2018年1月18日米国立科学審議会は、2016年に発表された科学・工学分野の論文数で中国が初めて米国を抜き、世界首位となったと発表しました。中国が頭角を現し始めたのは1990年代半ばで、そこから急成長し、2016年に発表された論文数は、米国が409,000本なのに対し、中国は426,000本を超えました。

そして昨年、中国が、自然科学系の学術論文の数・質(他論文からの引用の数)共に世界1位になったのでした。中国は論文数のみならず、論文の質の高さの指標であるTop10%補正論文数でも首位に輝いたのです。1997~98年時点では論文数が9位(2.7%)、Top10%補正論文数は上位に入ってすらいなかったことから、中国の目覚ましい成長には驚くばかりです。全分野(化学、材料科学、物理学、計算機・数学、工学、環境・ 地球科学、基礎生命科学、臨床医学)において1~3位と圧倒的な成長力を誇示しています。

 

一方、1997~98年のランキングでは論文数が2位、論文の質が4位だった日本の影響力は年々低下し、2021年版ではそれぞれ4位、10位と過去最低の順位に後退しました。論文の質は、以前は圏外だったインドにも追い抜かれました。中国から日本に学びに来ていたのは、もう遠い昔のことのようです。臨床医学、科学などあらゆる分野で世界をリードし始めた中国です。古代には中国から多くのことを学んでいた日本ですが、21世紀になって再び同じような関係になりつつあります。

Author:

武本 重毅

聚楽内科クリニックの院長、医学博士。