ドラッカー著「断絶の時代」から12:知識の未来
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われわれは
知識の探求において
優先順位を決めなければなりません。
知識の方向づけとそのもたらすものについて
決定を行わなければなりません。
これまでわれわれは
知識とその探求において
優先順位や限界についてはもちろん
方向づけについてさえ
考えなければならなくなるとは夢にも思っていませんでした。
特に世界的な紛争危機にわれわれが直面している今
もはや知識も
他のあらゆるものと同じように
絶対的な善ではありえないことが明らかになりました。
行動科学のかなりの部分がそうであるように
人の心の支配のための知識の探求は勧められることでしょうか。
悪魔しか出てくるはずのないパンドラの箱なのではないでしょうか。
細菌兵器はどうでしょうか。
それはどうせ他の者がやるという弁解が通用するでしょうか。
優先順位をつけることは
人間の行動に関わる科学や、政治に関わる科学
すなわち経済学、政治学、心理学、社会学において最も必要とされます。
これらの分野で成果を上げる人材は
自然科学の分野よりも少なくしかも育ちにくいからです。
政府や社会に関しては
膨大な量の思考、知識、創意が必要とされています。
なぜならば
自然は変わらなくとも
人間環境としての社会、コミュニティー、政府は
われわれが理解するよりも早く変化していくからです。
知識の探求にあたっての優先順位はどうあるべきでしょうか
訓練と経験と実績のある貴重な人材はいかなる仕事に向けるべきでしょうか
それを誰が決めるべきでしょうか。
しかも優先順位の決定の結果は重大です。
経済的資源の配分をはるかに超えるリスクを伴います。
しかもそのための知識はわれわれにはありません。
異なる分野を比較して決定を行うための方法もありません。
活動と成果の関係を特定できたとしても
異なる種類の成果について合理的な選択を行うことができないのです。
これらの決定は科学や技術によって行うことはできません。
価値観に基づく決定として
未来に関わる著しく主観的な評価として行わざるを得ません。
言い換えるならば
科学的な判断ではあり得ず
価値観に基づく判断たらざるを得ません。
優先順位を決定し
方向付けを行い
リスクを犯すことが必要になったために
知識そのものとその方向性、目標、成果に関わる問題が
政治上のリーダーシップを必要とする問題となりました。
仕事の基盤が機能から知識へと移行したことは
知識自体が公益を考えなければならなくなったことを意味します。
実に知識社会においては
最も重要な問題が、知識に関わる意思決定なのです。
われわれが知識の価値に疑問を持ち得るのは
まさに知識の成功のおかげです。
知識の価値が疑われるようになったのは
それが行動の基礎となり、主たる経済資源となったからです。
かくして明日の「イズム」は
知識をめぐるイデオロギーとなり得ることになりました。
明日の思想と政治哲学においては
知識が中心的位置を占めておかしくありません。
知識が経済と社会の基盤となり
あらゆる社会的な行動の原理そのものになったということなのです。
われわれの直面する断絶のうち
最大のものが、知識の地位と力の変化です。
今日再び人類は大きな発展を遂げようとしています。
われわれの仕事に知識を使い始めました。
そこに秘められた可能性は
かつての昨日のそれと同じ位大きいのです。
年月を要するかもしれません。
だがその与えるインパクトはすでに十分に大きく
そのもたらす変化はすでに十分に膨大です。
知識が与えるインパクトの中でも
最も大きく最も基本的なものが
知識自体に対する影響です。
特に仕事の基盤が知識に移行したことが
知識に関わるものに新たな責任を課すことになりました。
彼らがそれらの責任をいかに引き受けるか
そしてそれをいかに果たすかが
知識の未来を左右します。
知識に未来があるか否かを決めることになります。
明日を知るには
社会的事象を見るよりも
芸術家に聞いた方が良いかもしれません。
いかに知覚が優れていようとも
あるいは既に起こったことをいかに鋭く分析しようとも
彼らにはかなわないのかもしれません。
しかし彼らの正しさは
現実が起こってから知ることができるだけです。
重大な出来事や偉大な人物は
出現した後でのみ知ることができます。
現代が
限りなく危険な時代であることは言うまでもありません。
人類の未来に関わる最大の問題は
人類がどのような存在になるかではなく
そもそも存続できるかであることも
もちろん言うまでもありません。
ドラッカーは
今日の転換期が
1965年頃に始まり2025年頃まで続くと言いました。
そしてこの峠の始まりを
断絶として認識し
いち早く警告を発しました。
しかしドラッカーはこうも言いました。
「断絶の時代」こそ「好機の時代」であると。