子曰く、富(とみ)と貴(たっと)きとは、これ人の欲(ほっ)する所なり。その道を以(もっ)てこれを得ざれば、処(お)らざるなり、貧しきと賤(いや)しきとは、これ人の悪(にく)む所なり。その道を以てこれを得ざれば、去らざるなり。 論語【里仁篇】
富と地位とは万人の欲するところである。しかし、これを得るためにはそれ相当の方法がある。つまり学を修め功を立て、身をつつしみ徳をそなえることだ。富貴そのものはもとより悪いものではなく、青年の目的としてもよいが、これを獲得する手段方法については、慎重な態度が必要であるというのが、孔子の趣意であろうかと思われる。
『論語』の [雍也篇]に孔子は、広く民に施して大衆を救う者ならば、これは仁以上の仁で、聖人と称すべきだと言っている。広く民に施そうとすれば財産がなければならず、大衆をすくおうとすればこれまた資本が必要だ。何事をするにも先立つものはやはり金銭である。いかに民に施し大衆をすくおうとしても富がなければその希望を達しえない。ない袖は振れない。今日の文明政治を行なうには、ますます富の必要があるのである。
また、時としては、学問が上達しても人に知られず、行ないが修まっても採用してくれないこともある。これは不当なる貧賤ではあるが、こんな場合でも、君子は安んじてこれに耐え、悪あがきをしない。小人はこれに反し貧苦に迫られると、破れかぶれで非行に走ってしまう。
君子は富貴に処しても貧賤に処しても、ただ道義に適合することを求めつづける。境遇の変化によって心を奪われてしまうことはない。
(渋沢栄一「論語」の読み方、竹内均編・解説)
還暦まで1年を切ってしまうと、頭と身体が動くうちに悔いのない人生を全うしたいと毎日24時間考えるようになる。この数年で周りにはとんでもない程の成功者がおり、自分自身のこれまでを省みて時間とお金の使い方はあれでよかったのだろうかと自問自答している。しかし今の自分を形成したのは、これまでの歩みと経験であり、ほかの誰も得ることのできない過去である。以前から自分は「大器晩成」と信じ、相当に遠回りをしてきたのだから、同世代の人たちに遅れをとっているのは仕方のないことであり、これからその遅れを取り戻すように頑張るしかない。